泡 沫
「うちの近くで七夕祭りがあるの。皆で行ってみない?」 DDSの放課後、メグのその言葉にまず飛びついたのがキュウとキンタ。 「ボクは忙しいから…」と帰ろうとしたカズマはキンタに呆気なく捕まり、半ば無理やり輪の中に引きずり込まれた。 「リュウ君は?」 「…うん。行くよ」 特に予定があったわけではない僕も、帰路に着こうとしていた足を止めて、メグの誘いを受けた。 かくて、Qクラス全員でその「七夕祭り」へ出向く事となったのである。 ようやく日が沈み、辺りに虫の音が響きだした頃、大きな爆竹の音を合図に祭りはスタートした。 “七夕”と言うと、世間一般では7月7日に様々なイベントが行われるのが殆どのようだが、今回の“七夕祭り”は 旧暦の七夕にあわせて行われている祭りと言う事だった。 様々な飾り付けのされた通りは、夏休みと言う事もあってか大勢の人でごった返していた。 「こりゃすげーな。五人でぞろぞろ動き回るのはちょっとキツイぜ?」 「取り敢えず、二組に分かれて見て回らない?後から待ち合わせしてさ」 キュウの提案で、キンタ、メグ、カズマの三人、そしてキュウと僕の二人に分かれて行動する事となった。 「じゃ、花火が始まる8時にこの場所で―――――」 そう約束して、五人は二手に分かれた。 キンタたちと別れて、当然五人でぞろぞろと動き回るよりも遥かに身動きは取りやすくなったのだが、それでも あまりの人ごみにともすれば自分の少し前を進むキュウとはぐれそうになってしまう。 「リュウ、大丈夫?」 「うん…何とか……」 前後左右から容赦なく人が押し寄せ、キュウとの間の僅かな隙間に人が流れ込んでくる。 「キュウ、待っ……」 引き離されそうになり、慌ててその腕を掴もうとしたが、突然流れに逆らって無理に進んできた数人のグループに阻まれてしまった。 そのまま暫し視界さえも遮られ、そのグループが通りすぎた時にはキュウの姿は既に見当たらなかった。 「ちょと…スミマセン……」 なるべく流れに逆らわないようにして人の隙間を縫い、ようやく立ち止まれる場所へとたどり着いた。 側にあった木の幹へ寄り掛かり、はあっと大きく息をつく。 履きなれない下駄の鼻緒が、指に当たって痛い。 腹部は帯に圧迫されて、何となく苦しい。 「やっぱり断ればよかった…」 祭りまで時間があるからとメグの家に立ち寄った時、彼女の姉に半ば無理やり浴衣を着せられたのだ。 僅かに乱れた襟元を手早く直すと、はぐれたキュウと連絡を取ろうと携帯の短縮ダイヤルを押した。 トゥルルルル トゥルルルル ――――― 「気付かないのかな……」 留守電に接続されてしまった携帯を切って、辺りを見渡す。 その姿が見当たらないのを確認すると、 『近くで休んでるから』 その一言だけをメールで送信し、パチンと携帯を閉じた。 「さて……」 とにかくこの人ごみを避けて居られる場所はないかと、辺りを見渡す。 しかし、目の前の通りは相変わらず人の波がゆるゆると流れ、それを挟むように両サイドに露店が立ち並び、 とてもゆっくりと寛げる場所など見当たらなかった。 現に今自分は、露店と露店の間の僅かなスペースにようやく納まっているような状態だった。 「ちょっとキミ、大丈夫?えらくキツそうだよ?」 露店の若い女性が、心配げに声を掛けてきた。 「あ、はい、大丈夫です。…すみません、お仕事の邪魔をして……」 只でさえ広いとはいえない店の隙間でいつまでも休んでいるわけにもいかない。 そう思って、重い身体をよろりと起こす。 「…あそこの上にいってみなよ。ゆっくり休めるからさ!」 女性が顎で指した方に目をやると、この露店の並びの一角に、灯篭の淡い光に照らされた階段がぼんやりと見えた。 あそこは、確か……。 「はい、有り難うございます」 軽くお辞儀をすると、再び人の流れに乗った。 少し行った先に、びっしりと立ち並んだ露店の列が三、四件分ほど途切れる部分があり、そこにその階段はあった。 「確かに、この上ならゆっくりできるかな…」 実は、祭りが始まる少し前に、五人でこの階段の上にある神社に立ち寄っていたのだ。 ベンチなどは見当たらなかったが、この人ごみから逃れられるだけでも随分マシだろう。 僕は小さく息を吸うと、形の歪な階段を一段一段慎重に上り始めた。 徐々に通りのざわめきが遠くなり、カラン、カランという下駄の音だけが耳に入るようになる頃、ようやく頂上までたどり着いた。 軽く上がった息を整えて辺りを見渡すと、夕刻に見た小さな神社が微かな電灯の光を浴びてぼうっと浮かび上がっていた。 夕刻ここを訪れた時は人もまばらにいたのだが、皆祭りに夢中なのか、今は人一人見当たらなかった。 閑散とした境内を、心地よい風が吹きぬける。 薄く汗ばんだ肌からすうっと熱が奪われていく感覚に、ほっとため息が漏れる。 一息ついて砂利と石畳の敷かれた境内をぶらりと歩くと、闇でモノトーンに染められた境内の一角に、少しくすんでは見えるが 赤や黄色、金、銀と言った色とりどりの紙の飾りが目に入った。 七夕の笹飾りだ。 側に置かれたテーブルには、数本のペンと短冊が散らばっていた。 折角の“七夕祭り”だからと、神社側が参拝者のために用意したものだった。 足元に落ちていた一枚の短冊を拾い上げ、何となくぼんやりと眺める。 「何か、願い事でも?」 背後から、少し低めの静かな声が響いた。 「……別に」 感情もなく言い放つ。 「驚かれないのですね。流石です」 ゆるりと振り向くと、黒のスーツをきっちりと着込んだ一人の男が闇の中から姿を現した。 「何の用だ、ケルベロス」 突如現れた忌々しき存在―――――ケルベロスを目にして、無意識に表情が強張る。 「流様が、私を呼んでおられましたので」 「……何?」 唐突に思いもよらぬ事を言われ、思わず返答に遅れる。 ケルベロスは口許だけに笑みを形作ると、そのまま目の前を通り過ぎ、たわんだ竹の一番先端に結わえられた一枚の 短冊を手にした。 「…あの少年らしいですね」 その手には、少し離れた場所に居る自分にもはっきりと分かるほど大きな文字で、短く願い事が書かれていた。 『名探偵になる!』と。 いわずと知れた、キュウの短冊だ。 夕刻ここを訪れた時、思い思いに願い事を書いていたのだ。 「何故、流様は何もお書きになられなかったのですか?」 「……」 さも当然のように言い放つケルベロスの言葉に、一瞬胸がチリ、と燻った。 「…お前、一体いつからつけていた?」 発せられた声は、自分でも驚くほどに冷え切っていた。 身体中に、ピリリと緊張の糸が張り巡らされる。 「さぁ…。少なくとも、流様たちが夕刻ここにいらした時には、既におりました」 「お爺様の命令で、か」 「いいえ。私の意志で、です」 「まるでストーカーだな」 あからさまに皮肉を込めた言葉にも、ケルベロスは全く動じない。 「願い事、お書きになられないのですが?」 ケルベロスは、促すようにテーブルの方へ手を差し出した。 その言動に、再び胸がチリチリと疼く。 思わず、手にしていた短冊をクシャリと握り締める。 「…貴方様は、“書かなかった”のではない。“書けなかった”…そうでしょう?」 思わずピクンと反応を示す。 「あの偽善者集団の、いかにも幸せに満ちているかのような甘い戯言を目にして、貴方様はご自分と彼らの立場の違いを 実感なさったのでしょう?」 「何を分かりきったような事を……」 勢いで口をついて出た言葉は、思いのほか弱々しかった。 キッと見据えていた視線が、一瞬所在無さげに揺れる。 「図星、ですね」 「……ッ」 弱みを見せまいと、必死で自分を取り繕う。 しかし、きっとこの男は全てを見抜いている。 涼しげな表情で、口許だけに綺麗な笑みを形作って、さも当然の如く。 この男は、僕以上に僕のことを見抜いているのだ。 ツキン、と針を刺したような痛みが胸に走った。 続けて沸き起こる、入り混じった複雑な感情。 負で埋め尽くされた心の中で微かに芽吹いた、何か違うモノ。 その正体に気付きかけた自分の心を、もう一人の自分が阻む。 これは、警告だ。 ソコへ踏み入れてはならないと、アタマがココロを抑えつける。 「そろそろお疲れになられたでしょう?」 思考に割って入ってきたケルベロスの声に、はっとして落としていた視線を上げる。 「貴方様は、自らの御身の上の事情を周囲の人間に隠し、我らが何か事を起こすたびに負い目を感じておられる」 「…その“事”を起こす張本人の言う台詞だとは到底思えないな。ケルベロス」 「私は真実を申し上げているだけです。流様」 二人の間を、一陣の風がざっと吹きぬけた。 「……僕が冥王星に戻り、キング・ハデスの後を継ぐこと。それがお前の望みか」 手にしていた、少し皺のよった短冊を突き出す。 ケルベロスは伏せ目がちにクス、と笑うと、 「そう望まれるのは、我らが首領、キング・ハデスです。私の望むべき事柄ではありません」 と、突き出した腕に手をかけて、思いのほか優しい手つきで下ろさせた。 その言動に、再び沸き起こった感情と警告。 「では、大方キング・ハデスの望むことこそ自分の望みだとでも言うつもりか」 「いいえ。キング・ハデスを敬う気持ちは勿論あります。しかし、私はキング・ハデスの飼い犬になったつもりはありません」 「ならば、お前は一体何をしに僕の前に現れた」 ケルベロスは胸元に手をやると、軽く頭を下げて言った。 「流様の願いを叶えに参上しました」 数瞬の間。 思いもよらぬ事を言われ、思考がケルベロスの言葉だけに集中する。 「何を言い出すかと思えば……」 思わず笑いさえ零れる。 「お前に叶えてもらうような願いなど無い。敢えて願うとすれば、二度と僕の前に姿を見せるな。それだけだ」 一転して表情を強張らせた自分になど全く動じた様子もなく、ケルベロスは笑みを浮かべたままこちらを見つめていた。 その脇をスッと通り抜けてもと来た階段を下ろうとしたその時、それまでより少し低い声音が背に向けて発せられた。 「ありのままの自分でいられる場所が欲しい」 思わず足をピタリと止める。 「……何?」 「流様の願われている事です」 トクン。 微かに胸が脈打った。 「何を、突然……」 非難の色をまとった笑みを浮かべたつもりだったが、きっと表情は強張っていたに違いない。 「流様が家を出られ、あの偽善者どもと同じ時をお過ごしになられて数ヶ月。彼らとしては、流様のお変わり様は随分良い方向に 映っているようですが―――――」 伏せがちだった琥珀色の瞳が、こちらを真っ直ぐに見据えてくる。 「流様の背負われているものは、彼らにとって到底受け入れられるものではないのです。流様と彼らとでは、所詮存在する次元が 違いすぎるのですよ」 「知ったような口をきくな!」 思わず感情を露にした自分に、ケルベロスは尚も変わらぬ様子でさらりと答える。 「存じているから申し上げるのです」 「何を根拠にそんな……」 「ご自分でも自覚なさっているのでしょう?」 「…ッ」 言葉に詰まる。 時折、自分の中に流れる濃い血に、少なからず負い目を感じていたのは事実だ。 そんな中、キュウが僕の全てを受け入れ、支えになってくれたことで、冥王星に立ち向かう決意を固めた。 だから、それからはキュウの側に、DDSのメンバーの側にいることを苦痛に感じたことなどなかった。 ―――――筈だった。 言われて初めて気がついたのだ。 深層心理では、助けを、安らぎの場を求めていたことを。 DDSにも冥王星にも、中途半端に身をおいている自分。 冥王星に戻り、キング・ハデスの後を継ぐつもりは毛頭ない。 しかし、迷いを自覚してしまった今、これまでのようにDDSに身を置き、事件に、そして冥王星に立ち向かっていく事が できるのか……? 「ぼ…くは……」 ケルベロスを鋭く見据えていた視線が、ゆっくりと地に落ちる。 そして目に入った、力の抜けた自分の手の中に引っ掛かっている短冊。 「僕は……」 何の願いを託される事も無く、そのまっさらで細長い紙は、二人の間を吹きぬけた一陣の風に乗ってひらりと舞い落ちた。 |