泡 沫 2






















 柔らかな風がそよぎ、葉ずれの音がさわさわと響く。
 規則正しい虫の音に、波立った心が次第に凪いでくる。

 自分たち以外に誰もいない小さな境内。
 お互い口を閉ざしてから、一体どれ程の時が流れたのか。

 この男の前から姿を消すことは容易にできる。
 目の前に続く階段を下ればいいだけだ。
 この男も、自分がこのままこの場を去ったところで、追うなどという行為には及ばないだろう。

 しかし、僕の身体は、心は、この場を離れようとはしなかった。









 ピリリリリリリ ピリリリリリリ―――――

 突如、携帯が着信を告げる。

「……お出にならないのですか?」

 一向に反応を見せない僕に、ケルベロスは静かに言った。
 その言葉に促されるように、手の中で着信のランプをチカチカと点滅させた携帯電話に目をやる。
 ディスプレイには「メグ」と表示されていた。
 ゆっくりと受話ボタンを押すと、突如焦りを多分に含んだ大音量の声が、キン、と頭を突き抜けた。

『リュウ!?ようやく連絡取れたー!!』
「え……キュウ?」

 予想外の人物からの着信に、どこかぼうっとしていた頭が一気に覚醒する。

『リュウ突然いなくなっちゃうからさぁ!携帯に連絡しようとしたら、俺、家に忘れてきちゃったみたいで…。 だから、別行動してたメグたちと合流して、やっと連絡取れたよ!』
「あ……」

 すっかり忘れていた。
 そもそも僕はキュウとはぐれてしまって、身体を休める為にこの境内にやってきたのだ。

「ごめん。心配かけて……」
『ううん!こっちこそゴメン。リュウの事だから、きっと俺の携帯に連絡入れただろ?』

 少し勢いを落としたキュウの声が響く。
 その後ろでは、携帯を通して会話する僕たちの間に割って入るように叫んでいるキンタの声、それを静止するメグとカズマの声も 微かに聞こえる。
 携帯を通して生まれたいつもの慣れ親しんだ空間に、張り詰めていた感情が微かに緩んだ気がした。

 しかし。

『今どこ?俺、そっちに行くから』
「え……」
『…何?どうかした?』

 思わず言葉に詰まった僕に、キュウが不思議そうな声を上げる。

「あ、いや……」

 心が揺れる。

 ほんの数刻前の自分ならば、迷わず彼らの元へ戻ったに違いない。
 そう。
 何も気付かないままの自分だったなら―――――。

 ちらり、と目の前の男に視線をやる。
 初めて出会ったときと変わらぬ、綺麗に形作った笑みを浮かべる漆黒の男。
 月明かりに照らされた深くも強い光を宿す琥珀の瞳は、ゆるく、しかし確実に僕の心を束縛する。

 逃れる術は十分にあった。

 なのに。

「………めん」
『え?』
「ごめん、キュウ。花火、4人で楽しんできてくれるか?」



 僕を繋ぎとめていた何かが、プツン、と切れた。



『どうかしたの?』

 キュウが怪訝そうな声で尋ねてくる。

「あ、うん、ちょっと…用事を思い出して……」

 我ながら白々しいと思いつつも、今はそんな単純な言い訳しか思い浮かばなかった。

『……分かった。じゃあ、気をつけて戻ってきなよ?』

 キュウは、不審な色をうかがわせながらも、何かを察したのかさほど追求する事はなかった。

「うん、ありがとう……」

 後ろめたさを感じつつも、静かに通話を切った。
 ピッという小さな電子音が、やけにはっきりと響いた。



「何故、彼らの元へ戻られなかったのです?」

 暫しの間をおいて、ケルベロスが口を開いた。

「……」
「それが、貴方様の“答え”ですか?」
「僕は、冥王星を継ぐつもりはない」

 抑揚のない声で返す。

「それは、私の望みではないと申し上げた筈です」
「ならば、お前は何故、ここにいる…?お前の望みは、一体何なんだ…ッ」

 静かに感情を露にする僕に、ケルベロスは尚も変わらぬ口調でさらりと答えた。

「流様が私に望まれる事こそが、私の望みです」

 どこまでも真意の掴めないケルベロスの言葉に、苛立ちさえ覚えてくる。

「…僕も言った筈だ。お前に望むことなど何もないと…!」
「いいえ」

 間髪いれずに否定の言葉を浴びせられ、思わずその深い瞳を見つめる。

「お気付きになられませんか?ご自分が、心の拠りどころを求めておられる事に」
「ッ……?」

 欠片すらも予想していなかったケルベロスの言葉に、トクン、と胸が脈打った。

「な…にを馬鹿な、こと……」

 無意識のうちに出た否定の言葉は、逆に、本心では肯定しているのだという事を色濃く示していた。

「何の気負いも、偽りもない安らぎの場所。それは、あの少年の下でも、キング・ハデスの下でもない」
「…何が言いたい」
「言わずとも、気付いておられるのでしょう?流様ご自身の願われている事ですから」

 ケルベロスは、尚も自ら核心に触れようとはしない。

「…さっき、お前は僕の願いを叶えに来たと言ったな。では、お前は僕の望むままに僕に貢献しようとでも言うのか? ならば、やはりお前は飼い犬ではないか」

 感情を寸でのところで押し留めた僕とは対照的に、ケルベロスは真に冷静さを保ったまま、す、と目を伏せてくすりと笑った。

「流様がそう思われるのならば、それでも構いません。物事の捉え方など千差万別ですから。
ただ、ひとつ申し上げておきましょう。
私は、組織の幹部である前に、ケルベロスというひとつの個体でいるつもりです。 冥王星二代目のあなたに“貢献”するのではなく、流様ご自身に“興味がある”のだという事をお忘れなきよう……」

 ケルベロスは一歩後退すると、階段へ促すようにすっと腕を伸ばした。
 そのしなやかな動作につられて視線を向けた先には、提灯や屋台の照明がぼんやりと差し込んできている。

 あの光の下へ戻れば、これまで通りの、平穏とまでは言わなくとも仲間と笑いあえる日常が待っている。
 何も躊躇する事などない。
 戸惑う事などない。
 ようやく手にした“普通”の生活に戻るだけの事。

 でも―――――

 いくら今を平穏に過ごしていても。
 いくら押し殺していた感情を露にできていたとしても。

『所詮、存在する次元が違いすぎるのです』

 そう。

 僕が組織の後継者として育てられた忌まわしき14年間の記憶は、決して塗り替えることのできない真の事実。
 その過去を完全に凌駕できない自分の弱さもまた、事実。

 元の鞘に納まる気などさらさら無い。
 しかし、現在の生活すら、僕にとっては疑似的なものだったのかもしれない。

 では、僕の居場所は、一体何処―――――?



「……お前の口から直接聞きたい。お前の望みは何だ?」
「流様の心の拠りどころとなるこ……」
「たてまえはいい!」
「……」

 ケルベロスの口許から、初めて笑みが消えた。
 しかし、すぐにまたふっと口角を上げる。

「流様が、私の前では偽りなき姿でいてくださる事が……いえ、これもたてまえか……」

 ケルベロスは視線を落として口許に手を当て、独り言のように語尾をポツリと呟くと、暫し間をおいて再び口を開いた。

「……あなたの全てを私のものにしたい。それが、私の望みです」

 ケルベロスの表情に、あの偽りの笑みは浮かんでいなかった。









 ピッ、ピッ、と小さな電子音が辺りに響く。

「……あ、メグ?キュウに替わってくれるか?
 ―――――キュウ?ごめん、ちょっと帰るの遅くなるから。……うん、大丈夫。おばさんにも宜しく……」

 ゆっくりと降ろした携帯の通話を静かに切る。
 闇の中で眩しいほどの光を放っていたディスプレイの照明が消えると、パチンと音を立てて携帯を閉じた。

 思わずクス、と笑いが込み上げる。

「……一体、何を信用したらいいのか判らない。周囲の事はおろか、自分自身のことすら……。  何が真実で何が偽りなのか、もう……」

 声が震える。
 手の中の携帯をきゅっと握り込む。

 落とした視線の中に、ケルベロスの手がすっと差し出された。
 その腕を伝って視線をゆっくりと滑らせると、月明かりにぼんやりと浮かび上がる、深い琥珀の瞳に捕えられる。

「こと自分に関して求める真実ほど、不確かなものはありません」

 普段、機械的ともいえる言葉しか発しないケルベロスの声音に、微かに感情の色を垣間見た気がするのは、 やはり僕の心が病んでいるからだろうか…?

 差し出された手をぼんやりと見つめる。

「…では、この手は?真実なのか、それとも……」
「さあ。ただひとつ確かな事は、これが、今の流様の“願い”であり、私の“望み”だという事です」
「まるで、見てきたような口を利く……」

 ケルベロスの言葉に促されるように、静かに目の前の手をとった。

 触れることなど決してないと思っていたその大きな手に安堵してしまう自分に、なぜか驚きは無かった。
 普段の冷徹さとは幾分不釣合いとも思える熱を帯びた手に、身体の力がふっと抜ける。

 僕は、ケルベロスに引き寄せられるままに、その胸に垂れるように身を預けた。





 この行為が、
 このキモチが、
 真実なのか、偽りなのか、定かではない。

 でも、
 ただひとつ。

 今僕が、この時を求めてしまった事は、変える事のできない事実なのだ―――――。









 静寂をやぶって、風を切る高い音が辺りに響いたかと思うと、ドーンと爆音を立てて闇の中に光が降り注いだ。

「花火……」

 ケルベロスの肩越しに、漆黒の空を彩る大輪の花に目をやる。
 ほんの一瞬の華やかな美しさのあとの、儚く消えゆく花弁の如き小さな輝きに目を奪われる。

 何故か、酷く感傷的な気分になる。
 場の雰囲気に呑まれたのだろうか。

「流様」

 呼ばれて少しだけずらした視線が、深い輝きを放つ瞳に絡めとられる。

「…そうやって、貴方の全てを私に見せて下さい。悲しみも、喜びも、怒りも、他の誰も知らない貴方の姿を、 私にだけは―――――」

 大きな手が、頬に添えられる。

「ケル……」

 呼びかけた名は、当の本人に飲み込まれた。
 優しくあわせられる、柔らかな感触。
 敏感な箇所に感じる体温の心地よさに、全身の力が抜けていく。
 それを察したかのように、ケルベロスは腰に軽く添えていた腕を背と後頭部にスルリと回し、さらに引き寄せるように力を込めた。









 願い。

 それは、物欲でも、未来へ馳せる夢でもない。

 僕が欲しかったのは

 ただひとつ。

 この

 泡沫の時。










E N D.