解 放 区






















「…おい」

 濡れた髪を拭いながらリビングに入り、最初に目に入ったのは、足元に横たわる細い身体。

「おい、天草」

 側にかがみこみ、肩を緩く揺する。

「ん……」

 吐息と共に漏れた、小さな呻き声。
 整った眉が、僅かに寄せられる。
 もぞ、と身体をまるめて、自分の肩口に顔を埋める。 
 長い睫毛が、揺れた。

 閉じられていた瞼が、ゆるりと持ち上がる。
 そこから覘いた、睫毛に遮られて光を宿さない、薄紺色の瞳。
 整った顔立ち、透けるような肌の白さ。
 緩やかに弧を描く、細い髪。

 未だ夢現をさまよっているのだろうか。
 瞳を薄く開けたままピクリとも動かないその姿は、まるで人形。

「天草……」

 無意識の内に零れた声に、リュウが反応を見せる。

 肌に掛かっていた数束の髪が、スルリと滑る。
 気だるい様子で、頭を動かす。
 同時に向けられた瞳が、照明によって光を宿す。

 眩しさで眉間に皺を寄せて、七海を見つめてくる。
 その姿が、表情が、あまりにあどけなくて。

 掻き立てられたこの感情は ――― きっと、保護欲。





 ぼうっと七海を見つめていた瞳が、再びゆるりと閉じられる。
 硬いフローリングの上でもぞ、と身じろぐその姿に、七海ははっとしたように再びその肩に手を掛けた。

「おい、寝るんならベッドで寝ろよ」
「ん……」

 その声は、一応は耳に届いているのだろう。
 答えるように小さな声が返ってくる。
 しかし、ゆるゆると揺すられるその感覚が逆に心地良いのだろうか。
 一向に起きようとする気配はない。

 その様子は、いかにも年相応の子供のようで。
 しかしそれは、七海を驚かせる以外の何ものでもなく。

 そんなリュウに、七海は悲しさを覚えた。





「ったく、風邪引くだろうが……」

 呆れたような言葉を吐きながらも、その口調はどこか柔らかい。
 起こす為に及んでいた行為を止めたときも、完全には目を覚まさないでいてくれた事に内心ほっとしていた。

 行動も、感情も、意思も、全てが噛み合っていない。
 いい大人が、自分よりひとまわり以上も下の一人のコドモに乱される。

 再び静かな寝息を立て始めたリュウの背と膝の裏に、するりと腕を回す。
 胸元に引き寄せて立ち上がると、その軽さに正直驚いた。
 端から見ただけでも華奢な方だとは思っていたが、腕の中に抱き込めてみて、改めて思い知らされた。

 職業柄、観察眼は十分に優れていると自負できる。
 だから、DDS入学からほんの数ヶ月しか経っていないとはいえ、リュウがなにか大きなものを内に秘めている事には、薄々感づいていた。

 この細い肩に、一体どれだけのものを背負って生きてきたというのだろうか ――――― 。

 チリ、と胸が燻った。





 できるだけ振動を与えないようにそろりと歩き、半分ほど開いていた寝室のドアを背で押して中に入る。
 リビングから漏れる光を頼りに足を進め、窓際に配置されたベッドの前に辿り着く。

 腕の中で、リュウがわずかに身じろぐ。
 七海の胸元に顔を沈めて、小さく息を吐く。

 上半身にじわりと伝わる、心地よい体温。
 規則正しく上下する胸。呼吸。
 何の心配も、不安の色も見せずに眠るその表情は、無垢そのもの。

 胸が痛んだ。





 リュウを抱えたまま、使用感の殆どないベッドのシーツをパサリとめくり、その身体をそっと下ろす。
 膝の裏から腕を引き抜き、ゆっくりと上体を横たえさせる。
 密着していた身体から、体温が離れていく。
 間に生まれた空間に、冷えた空気が流れ込む。

 しかし、その隙間は再び体温で埋められた。

 背中を支えていた腕から、突如重みが消えた。
 不意に、リュウの腕が七海の首にまわされる。

「お、おい…ッ」

 上体に、ぐいと力が加わる。
 引き寄せられるままに、共にベッドに倒れこみそうになる。

「…ッ」

 咄嗟に空いていた手をベッドについて、バランスを崩した身体を支える。
 反動で首にまわされた腕が緩み、リュウの身体がズルリと滑る。
 七海は、その背に再び腕を添えて、何とか抱きとめた。

 暫し静止したまま状態が安定したのを確認すると、はあ、と大きく息をついた。

「おっ前なぁ、俺に生徒を押し倒させる気かよ……」

 一人ぼやいて、胸元に沈むリュウの顔を覗き見る。
 多分、浅い眠りの中をゆらゆらと漂っているのだろう。
 微かに身じろいで、先刻と変わらず静かな呼吸を繰り返している。

 七海は、首にまわされたリュウの腕をそろりと解いた。
 小さな呻き声が漏れ、僅かに顔がしかめられる。

「分かった分かった」

 まるで、小さな子供をあやしているような感覚。
 思わず、ふっと笑みが零れる。

 宥めるように背中をポンポンと叩き、自らもベッドに腰を下ろす。
 壁に寄りかかってリュウの身体を自分の胸元にもたれさせ、シーツを手繰り寄せて羽織る。

 リュウが、うっすらと瞼を開ける。

「こんなところで良けりゃ、安心して眠れよ」

 月明かりに照らされた瞳が、僅かに揺れる。

「何も心配するな」

 その頭を、優しく撫でる。

 程なくして、リュウの身体から完全に力が抜けた。





 普段のリュウからは想像もつかない、この数分間の行為。
 本人は意識下になかったようだが、だからこそ顕著に現れる。

 リュウが、現在最も求めているもの。

 愛情と、安らげる空間。

「俺が、守ってやるよ……」

 七海は、自分の胸元で静かな寝息をたてて眠るリュウを、そっと抱き締めた。











E N D.







自分で書いておいてなんですが…有り得ません。
リュウはこんなに寝起き悪くありません(苦笑)。
例えば連日連夜の捜査で究極に疲れ果てていた…とかいう設定にでもしておいて下さい(逃)。