違う時を過ごす君へ。
車窓から眺める景色から高層ビル群や賑やかな街並みは消え行き、深い緑の萌える美しい自然が広がる。
暇つぶしの為に持ってきた推理小説を読む気にもなれず、等速で流れ行く風景をぼうっと眺めていた。
僕は一人、九頭龍匠の謎に迫るべく、彼によって建てられたという洋館へと向かっていた。
彼が興味を持ったひとつの小箱。
僕が強力に惹きつけられた、現在はホテルになっているという洋館。
この建造物に対して湧き上がる興味は自分でも異様に思えるほど大きかった。
しかし僕は、彼の気になると言った『組木箱』を一緒に捜しに行こうと、当然の如く決心していた。
しかし、当の本人から意外な言葉を返された。
「今回は、別行動にしないか…?」
そう言った彼の目からは、何かを乗り越えようとしているような決意の色が窺えた。
「分かった…」
そんな彼に、僕はそう答えざるを得なかった。
かくして彼と僕は、とある駅で別れることとなった。
「気をつけて行けよ。九頭龍匠の芸術作品には、どこか人を狂わせる魔力がある―――――」
別れ際、彼へ忠告した一言。
実のところ、自分自身へ言い聞かせる為に口にした言葉だった。
九頭龍匠の作品が絡んだ事件で、自分がどこか歯止めの効かない状態に陥ってしまう事は自覚していた。
そして、そんな自分を制御してくれたのは、他でもない彼だった。
その彼が、今回は側にいない。
不安。
認めたくはないが、気を抜けば、僕の心はこの感情に支配されてしまいそうだった。
車内アナウンスが次の停車駅の名を告げる。
程なくして、僕は一人、その駅へと降り立った。
改札を抜け、地図に簡単に目を通し、駅の構内を出た。
足を進めるにつれて沸き起こる、不安以外の何か。
言葉では上手く言い表せないが、僕はこの感情を知っていた。
トクン
その強い存在感を、肌に感じる。
トクン
重い身体に反して、自然と早まる足。
トクン
気持ちが逸る。
そして。
トクン。
姿を現した九頭龍匠の芸術作品、『棲龍館』を目の前に、僕は暫し、魂を奪われたかのように立ち尽くしていた―――――。
その日の予定も取り敢えず一通り済ませ、用意されていた部屋へ入った。
異様に疲れきった身体を休める為、シャワーを浴びて湯を張ったバスタブに身を預ける。
思わず、大きな溜息が漏れた。
ぐったりと疲れきっているのは、身体の疲労のせいだけではない。
心の疲労感の方が、数倍大きかった。
あまりの気だるさに、簡単に水気を拭っただけの身体に用意されていたバスローブを羽織り、濡れ髪のまま、二つ並んだうちの
片方のベッドに仰向けに沈み込んだ。
サイドボードの時計の針は、11時を指そうとしていた。
本来ならばこのまま眠りに堕ちてもおかしくないほど、身体は疲労感に満ちていた。
しかし、心がざわめいて眠気など一向に襲ってこない。
落ち着かないのは、慣れない場所だから、という理由からだけではない。
ゆっくりと部屋を見渡すと、薄暗い照明に浮かび上がる、龍をモチーフにした装飾が目に映る。
僕は、視界から全てのものを抹消するかのごとく、淡い光を放つベッドサイドのライトを消した。
一瞬で全てを覆い隠した深い闇に、ざわついていた心が微かに静まりだす。
そして僕は、ベッドに倒れこんだまま、突如襲ってきた睡魔に身を委ねた。
「――――― ねえ、リュウ」
ゆるゆるとしたまどろみの中、微かに声が聞こえた ――――― 気がした。
「……何、キュウ―――――」
ぼんやりとした口調で返事をし、ゆるりと隣りに視線を向ける。
闇に慣れた目は、誰も使う者のいない、綺麗に整えられたままのベッドを映した。
「あ……」
一体どうしたというのだろう。
彼がここにいる筈などないのに。
幻聴に当然の如く返事を返してしまった自分自身に驚く。
そういえば、彼の家に居候するようになってから、お互い予定がない限りは常に同じ時を過ごしていたように思う。
ましてや夜に至っては、一緒にいるのが当然のようになっていた。
その存在が、今隣にない。
それに気付いた時、初めて実感した。
寂しい、と。
ほんの数ヶ月前までは、常に一人だった。
目の前に人間がいても、心は常に孤独だった。
それが、僕にとっての“普通”だった。
しかし、いつの間にか彼の存在が当たり前になって、彼が隣りにいないことが不自然になっていた。
「キュウ……」
何となく口にした名前。
しかし、口に出すべきではなかった。
受け止める者のいないこの部屋で、呼びかけは虚しく闇に消えていった。
突如、言い知れぬ不安感に襲われた。
それは、恐怖に近いものがあった。
目を開けると襲い来る、自我を失う恐怖。
目を閉じると襲い来る、孤独という恐怖。
「―――――ッ」
僕は綺麗に整えられていたシーツをグシャリと自分の身体に引き寄せ、自らを強く抱き締めた。
ピルルルル。
痛いほどの静寂を破った、小さな電子音。
シーツから微かに顔を覗かせると、サイドボードに置いていた携帯電話が、闇の中で着信を知らせるランプをチカチカと
点滅させていた。
僕は重い腕をゆっくりと伸ばし、折りたたみ式の携帯電話を開いた。
眩しいほどのディスプレイの照明に、思わず目を細める。
そして数瞬の後、映し出された発信者の名前を目にして、苦しいほどに胸が脈打った。
『あ、リュウ?』
受話口から響く、懐かしい声。
いや、実際には別れてまだ一日と経っていなかったが、酷く長い間離れていた気がする。
『リュウ…?』
「えっ、あ、うん……」
訝しげに響く声に、慌てて返事をする。
『もしかして寝てた?』
「…いや、大丈夫だよ」
込み上げてくる感情をどうにか押し留め、平静を装って答える。
『そっか、よかった。ちょっと遅かったからさ、もしかしたら寝てるかなぁと思ったんだけど…』
サイドボードに目を向けると、時計は11時40分を表示していた。
「そっちはどう?組木箱は見つかった?」
『そうそう!それがさぁ―――――』
お互い、その日の出来事を大まかに伝え合う。
しかし、敢えて自分の考えを口出しはしなかった。
きっと彼は、それを望んでいないから。
意見を求め合う事は大切な事だ。
しかし今回の場合は、彼が別行動をとろうと言い出した意味がなくなってしまうと思ったから。
それに、今の僕は推理を展開する事などに頭が回る筈もなく、ようやく訪れた心休まるひと時に身を委ねていた。
『ねぇリュウ…何かあった?』
「え?」
不意に思わぬことを尋ねられて、微かに声音が変わる。
「……何で?」
『いや、なんか様子がおかしいような気がしたからさ』
「そう…かな……」
言いよどむ僕に、彼のクスクスと笑う声が聞こえてきた。
『もしかして、一人で寂しい?』
「な、何言って…!」
思わず声を上げた僕に、彼は企みの色を含んだ声で言った。
『あ、図星』
「違うって!小さな子供じゃあるまいし…ッ」
自分で自分を貶める言葉に虚しくなりながらも、必死で否定してみせる。
『俺は、寂しいよ』
「え……」
『リュウがいないくて、俺は寂しい』
「キュウ……」
予想外の言葉だった。
普段より少しだけ低い、電子音と融和した声音に、 トクン、と胸が鳴る。
『俺さ、今回リュウと別行動して初めて気付いたんだ。リュウが隣にいるのが当たり前になってた事に』
「……」
『昼間はいいんだけど、夜になって部屋に戻ると、なんかこう、一人でいることが不自然って言うか…』
「……」
『だから、声だけでも聞けないかなと思って、さ……』
へへ、と照れ笑いが聞こえてくる。
『何かほんと、中3にもなって何言ってんだって感じだよね』
まだ少し幼さを残す、聞き慣れたトーンで半分ふざけたように言う。
「……ありがとう」
『え?』
不意の言葉に、彼は不思議そうな声を上げた。
「嬉しかった」
『リュウ?』
隠し切れなかった声色の変化に気付いたようだ。
「僕も、キュウの声が聞きたかったから…だから……」
感情の波が押し寄せてきて、思わず言葉に詰まる。
『リュウ』
優しくて強い、彼の声が響いた。
『頑張ろう!』
「……!」
その声に、誰もいない筈の部屋でポン、と背中を押された気がした。
途端に、身体からそれまでの緊張感が嘘のように抜けていった。
自分がこんなにも単純な人間だったなんて、正直初めて自覚した。
思わず、ふっと笑みが漏れる。
「……うん。頑張ろう…!」
静かな声音に秘めた強い決心を、きっと彼は感じ取ってくれただろう。
「おやすみ」と言葉を交わしあい、静かに通話を切った。
部屋に、再び闇と静寂が訪れる。
しかし、不思議と先程の押しつぶされそうな不安や恐怖感は湧いてこなかった。
『頑張ろう!』
目を閉じると、隣にいて励ましてくれているような錯覚を覚えるほどリアルに、彼の声が脳裏にこだまする。
『寂しい』と、自分の弱さを曝け出せる彼。
『頑張ろう』と、自分も他人も奮い立たせてしまう彼。
全てを含めて、彼は強い人だと、改めて思った。
そして、そんな彼だからこそ、自分はこうも惹かれてしまうのだ。
「…何を考えてるんだ、僕は……」
何だかとてつもなく恥ずかしい事を考えていたのを自覚して、身体中が熱くなる。
夜風を部屋へ入れようと、厚いカーテンをシャッと開けてカラリと窓を開けた。
テラスに出ると、柔らかな空気が火照った身体を優しく撫でていく。
郊外の澄んだ空には、満月が僅かなかげりもなく煌々と輝いていた。
「…頑張るよ」
同じ月夜の下にいる彼に、僕はそう誓った。
E N D.