ゆびきり
























しんと静まり返った廊下に、足音と共に時折床のきしむ音が響く。
『資料室』と書かれた部屋の前に辿り着き、戸をあけて照明のスイッチに手を伸ばす。
薄暗い室内が、白熱灯の光に照らされる。

部屋の中心辺りまで足を進めたとき、視界の隅で影が揺れた。

「こんなところで何やってんだよ」
「……七海先生こそ」

 資料室の一番奥、大きな棚が仕切りを作るように置かれてできた小さなスペースの窓際で、リュウはそれまで読んでいた小説から視線をずらして七海を見上げた。

「DDC職員は、全員事件現場へ向かった筈では?」
「……俺は降ろされたの」

 リュウの瞳に走った、一瞬の緊張。
 微かに目を細めて、七海から視線を外す。

「…そうですか」


 多分、噂は広まっているのだろう。

 ケルベロスが、特別拘置所から脱獄した。

 その失態を咎められ、現場を離れてDDS専任講師を命じられたのは、つい先刻の事。
 処分の事までは生徒達の耳に届いてはいないだろう。
 しかし、これだけの条件を並べられれば、リュウならば大体の予測はつく筈。


「…お前、慰めるくらいできないのかよ」

 溜息混じりに言ってみる。

「先生は、慰めが欲しいのですか?」

 再び向けられた色素の薄い瞳からは、すでに緊張の色は拭われていた。

「冷てーヤツだな」

 全てを見透かしているのか、単に普段通りに振る舞っているだけなのか。
 リュウのその言動に、思わず苦笑が漏れる。
 そんな七海に、リュウも微かに笑みを浮かべた。

 細めたリュウの瞳を一瞬だけ覆った影に、その時七海は気付かなかった。






 朱に染まっていた夕刻の空が、徐々に藍色へと変わりだす。
 講義に必要な資料を一通りかき集め、ふと視線を向けた先には、未だ小説を読みふけるリュウの姿があった。
 側には、既に帰り支度を整えたバッグが置いてある。
 そういえば、途中Qクラスの横を通りかかった時、キュウと遠山の姿を見かけた。
 大方、遠山が本郷に扱かれて課題でも出され、その手伝いをしているキュウの帰りでも待っているのだろう。

 そんな事を思いながら無意識にリュウを見つめていた七海は、ふと違和に気付いた。

 ピクリとも動かない身体。
 本の端に添えられたまま、一向にページを捲らない指。

 視線は紙面に向けられているものの、鋭く細められたその目は、文字も、周囲の風景も、捉えてはいない。
 冷ややかな硝子玉のように、ただ、周囲の薄闇色に染められている。


 わざとらしくカツカツと踵を鳴らし、リュウの背後に歩み寄る。
 手の届く距離まで近付いたところで立ち止まり、それでも何の反応も示さないリュウの、その細い肩を少しだけ強く引いた。

「…ッ!」

 ビクン、と身体が跳ねた。
 素早く振り向き、息を詰めて七海を見上げる。
 見開いた瞳は、恐怖の色さえ宿していた。

「せん…せ……」

 掠れた声が漏れる。

 七海は、リュウの予想外の反応に一瞬躊躇うも、あえて静かに問いかけた。

「…何、考えてた?」

「………」

「さっきのお前の目、久しぶりに見た」

「っ……」

 恐怖に混ざる、困惑。
 視線が絡んだまま、沈黙だけが流れる。


 真っ直ぐに向けられた七海の視線は、リュウの全てを見透かしてしまいそうなほどに強い。

 拒絶することも、逃れることも適わず、何も知らない無力な幼子のように怯臆の色だけを露にする。

 今はまだ、全てを吐き出してしまう勇気など無い。
 そしてまた、その場を取り繕うための言葉も、態度も、今のリュウは持ち合わせていなかった。


 ただひたすらに絡んだ瞳で許しを請うても、気付いているのかいないのか、七海はリュウを解放しようとはしない。

 リュウは、耐えかね口を開きかけるも、言葉は喉元に詰まり音とはならず。


 途切れぬ沈黙の中、一旦息を小さく吸い、再び口を開きかけた時、七海の腕がリュウのサイドの髪を掠めた。

 反射的に身をすくめたリュウの首筋に手を回し、強く引き寄せる。
 そのまま、その唇を強引に塞いだ。




 ぱさ、と音を立てて、白の帽子が足元に落ちた。
 唇を強く合わせただけの状態で暫しの時が過ぎる。
 引き寄せた手の力を緩めてゆっくりと離れると、次第にピントの合ってきた瞳が、唖然と見開かれた蒼の瞳を捉える。

 七海は、そんなリュウの姿に思わずふと笑みを漏らす。

「別に、言いたくないことを無理やり聞き出すつもりはねぇよ」

 乱れて目に掛かっていた一束の長い髪を、さらりとサイドに流してやる。

「ただ」

 声のトーンが僅かに下がる。

「自分を見失うなよ」

「……え…」

 不意の言葉に、リュウの胸が大きく脈打つ。

「何があっても、絶対に」

 静かな、しかし強い七海の口調は、リュウの不安と疑念を駆り立てる。


 感付かれたのだろうか。
 ただ一人にしか明かしていない己の素性。
 しかしこの人ならば、優れた観察眼を持つこの探偵ならば、その目と五感さえあれば全てを悟り得てしまうのかもしれない。
 『言葉』による情報収集など、この人にとっては余り有る手段なのかもしれない。


 形の整った眉が、僅かに寄せられる。
 色素の薄い瞳が、七海の姿を映したまま揺れる。

 七海は、ふう、と小さな溜息をついた。
 時折ではあるが、冷静さを欠くリュウの言動。
 そして、ふと垣間見せる冷たい瞳。
 これらの起因が同じ基点を持つということは、大方の予想をつけていた。
 しかし、それを再確認させる筈の一言が、ここまでリュウを動揺させるとは思ってもいなかった。


 どうしたものか。
 落ちた帽子を拾い上げて被りなおす様子を、リュウは平静を装い、しかし尚も強張った表情で見つめている。

 暫し思考を巡らせ、この場をやり過ごす術をあれこれひねり出す。
 そして。

 リュウの目の前に、小指を差し出した。

「……?」

 脈絡の無い七海の行動に、強張ったリュウの表情が僅かに緩む。

「ゆびきり」
「…は?」

 真剣な面持ちでそんな事を言い出す七海を、リュウは訳が分からずきょとんと見つめる。

「約束すんだよ、自我を保つことを忘れないって。その、ゆびきり」

 リュウは、差し出された小指を暫し見つめ、七海の行動の意図を―――七海の気遣いをようやく汲み取る。

「……子供扱いしないで下さい」
「子供だろうが」

 ようやく表情の解れてきたリュウに、七海もいつもの調子で受け答える。

「ちょ…っ」

 七海は、差し出される気配の無いリュウの細い手首を掴むと、無理やり胸の高さまで引っ張り上げて小指を絡ませた。

「ゆびきりげーんまーん嘘つーいたーら…」
「嘘ついたらって……僕は何も約束してませんが?」

 冷静に正論を唱えるリュウを無視し、七海はさらに続ける。

「嘘ついたら〜…そうだなぁ…」

 絡ませた小指を上下に振られながら、リュウは取り敢えず七海の次の言葉を待った。

「あぁ、そういや女子大の潜入そ」
「お断りします」

 間髪入れずに低い声が返ってくる。
 見ると、鋭い目つきで七海を睨むリュウの姿がある。

「なーに、年齢なら、化粧すりゃ大丈」
「そんな問題じゃありませんっ」

 頬を染めて抗議するその姿は、まさに“子供”。
 七海は、思わず笑みを漏らす。

「だったら、約束を守りゃいいんだよ」
「……」

 反論しようとしたリュウの口を閉ざすように、再び言葉に乗せて手を動かす。
 いつどんな手段で抗議を示してくるか待ち構えていた七海だったが、リュウは意外にもされるがままで。

 しかし、最後の最後。

「ゆーび切っ…いててててっ!」

 離れようとした瞬間、あろう事かリュウは絡めた小指に渾身の力をこめた。

「おっ前なあ!」

 リュウのせめてもの抵抗。
 しかし、七海はすかさず反撃に出る。

「このまま小指を繋いだままでいるか?俺は構わねーけどな」

 口角を引き上げて、絡めた小指を強く引く。
 腕に力の入ったままのリュウは、勢いで身体まで引き寄せられる。
 接近する七海の身体から慌てて身を引こうとしたところで、七海の腕が腰に回されて逃げ場を失う。

「ちょ…悪ふざけもいい加減に…っ」

 リュウは必死で手を引こうとするが、七海はそれを逃そうとはしない。
 接近した身体の間の狭いスペースで、二つの手が震える。

 視線を上げると、明らかにこの状態を面白がっている七海の表情。

「………」

 暫し続いた力の拮抗ののち。

 小さく溜息をつき、ふと手から、そして身体から力を抜く。

 先に折れたのは、リュウ。


 七海は思いっきり口角を引き上げてみせる。

「約束な」

 無言のままきまりが悪そうに上目遣いで見つめるリュウの様子に、七海は無言の了解を得たものとする。

 リュウは、もう一度小さく溜息をつく。




 ゆびきった。




 離れた小指は、いつまでも熱を宿していた。




E N D.







何気にバカップル。
七海にいじられるリュウって、好きだったりします。