photograph






















 キュッ。

 自分のために用意された食器を洗い終え、この家本来の住人のそれと共に、カゴに伏せる。

 ピチョン ピチョン。

 蛇口から水滴が滴る音が、部屋に響く。

 窓辺に優しく差し込む、初秋の朝日。
 庭先で、餌を啄ばむ小鳥の姿。
 穏やかな、いつもの朝。

 濡れた手を洗い立てのタオルで軽く拭い、部屋の端から端へ、ゆるりと視線を向ける。
 コーヒーの空き瓶に生けられた、淡色のコスモス。
 テーブルの上に無造作に置かれた、新聞。
 リビングのソファーに投げ捨てられた、彼のシャツ。
 寝坊した彼とその母親の喧騒のひと時は、いつも通りの朝の光景。
 今日までは―――――。

 ……パタン。

 小さく響いたリビングのドアの閉まる音は、終刻の時を、静かに告げていた。





 タン タン タン。

 階段を上り終え、目の前には見慣れてしまったドア。
 その前で、暫し立ち尽くす。

 コン コン。

 いつも勢いよく戸を開けて、満面の笑顔で迎え入れてくれた彼。
 少しだけ年月を感じさせる木のドアの、いつもノックをしていた箇所にそっと手を当てる。
 そのまま、ドアにゆっくりと体重を預ける。
 微かに鼻をついた、木の香り。
 このドアを隔てて存在する、全てを包み込むかのような、彼の温もり。
 全ては、今日を境に過去のものへと姿を変える。

 ひと時の安らぎを与えてくれた、6畳の和室。
 僅かにではあるが、“自分の部屋”という様相を表しだしていたこの部屋は、再び、亡くなった彼(か)の人のモノという、 本来の姿に戻りつつあった。

 テーブルに残していた僅かな私物を、重い手つきで鞄に詰め込む。
 来た時よりも少しだけ増えた荷物は、自分がこの場所で過ごした時は夢ではなかったのだという証拠。

 パタ。

 畳の上に、ひとつの小さな冊子が零れ落ちた。

 パラパラパラ。

 ページが捲れる。

「ぁ……」

 誰からともなく渡された、数々の、写真。
 目も、意識も釘付けになる。
 身体の力が抜けて、その場にペタン、と座り込む。

「………」

 恐る恐る、その写真を手に取った。

 そこには、僕にとっては偽りのような、しかし真実の時が焼き付けられていた。





「お迎えに上がりました、流様」

 背後から、少し低い、澄んだ声が響いた。
 朝の光が眩しく差し込む部屋の入り口付近に、漆黒を身に纏った男は静かに佇んでいた。

 何の反応も示さない僕に、男は暫しの間をおいて部屋に入ってきた。

「…ご準備は、お済みですか?」

 手の中の写真に目を留めて、男は尚も変わらぬ口調で問い掛けた。

「…車でお待ちしております」

 そう言って男が部屋を去ろうとした瞬間。

 パタン……。

 僕は、静かにその写真をテーブルの上に置いた。





「お荷物は私が」

 男は側にあった鞄を手にし、未だテーブルに残っていた僅かな荷物を丁寧に詰め込む。
 ひとつ、ひとつ、“僕”が、この部屋から姿を消していく。
 それを止めたいという思いとは裏腹に、僕の腕も、口も、動いてはくれなかった。

 苦しい。

 苦しい。

 だけど。

 最後に残された写真に男の手が伸びた時。

「それは、いい」

 どうにか搾り出したその一言で、全てが、終わったと思った―――――。





「参りましょう」

 男が、す、と手を差し出した。
 誘われるままにその手を取る。

 白手袋越しの、男の手。
 その手に、何の違和も、恐怖も、悲しみも覚えず。
 むしろ安堵すらしてしまう自分に、何故か驚きはなかった。

 部屋にあった小さな鏡の前を通り過ぎたとき、一瞬自分の姿が目に入った。

 冷たい瞳。
 感情のない顔。

 そう。
 あの写真の中の自分には、きっと戻ることはない。
 だから、せめてあの笑顔だけは、闇にのまれてしまわないように。

 あの、間違いなく光の中で時を刻んできた僕だけは。

 いつまでも、光の中に。





E N D.







…暗くてスミマセン;;
『photograph』というタイトルを見た瞬間に浮かんだイメージが
“冥王星に出戻るプリンス”だったんですよ。
最初はここまで暗くなる予定じゃなかったんですが;;
『たとえ冥王星に戻ったとしても、自分が本当の自分でいられたあのひと時だけは、
闇に侵されたくない』という、リュウのせめてもの儚い思いを書きたかったのでした。
2004.09.13