その月、分かつ夜 しんと静まった教会内に足を踏み入れると、この場にはそぐわぬ、ジャリ、という擦過音が石壁に反響して響き渡った。 月明かりを頼りに真っ直ぐに伸びた廊下を進むと、荒れ果てても未だ静粛な雰囲気を保っているその空間とは不釣合いな、むっとした空気が漂ってくる。 床には、乾きかけ黒ずんだ赤が、そこかしこに滴りや引きずったような跡を生々しく描いている。 まだ所々にぬめりさえ残る赤く染まった床を踏みしめ、神田は目の前にそびえる礼拝堂の扉を開けた。 淀んだ空気に、思わず息を詰める。 自分の団服から漂う鉄錆のような匂いと僅かな腐敗臭が、この広い空間に充満している。 神田の脳裏に、つい数刻前の凄惨な光景が蘇った。 イノセンスの回収と、それに関連した大規模な調査の為に訪れたこの地。 アクマが絡んでいる可能性は無いだろうと、任務完了の報告を入れた時にコムイは言っていた。 その直後、突然の襲撃。 進化して自我を持ち、いつの間にか自分達に忍び寄っていたアクマの大群。 認めたくはないが、この大都市の中心で次々に襲い掛かる、人間の姿をした敵に応戦する事で精一杯だったのだ。 結果、20名近くいた探索部隊の殆どがその命を落とす事となった。 つい先刻、ようやくの本部からの救援で、礼拝堂に安置されていた遺体は全て教団への帰路に着いた。 その姿形こそ既にないものの、目の前に広がる光景はその惨況の跡を生々しく残している。 神田は片膝をつき、そろりと床に手を伸ばした。 外気に触れ粘度を増した赤の雫が、白い指を濡らした。 ふと気配を感じ、体勢はそのままに視線だけを背後に向ける。 瞬時に目に入ってきたのは、薄闇の中で月明かりに照らされその存在を強く主張する、橙赤の髪。 「やっぱりここだったさ」 「ラビ…」 一体いつからそこにいたのか、扉に寄りかかるようにして立っていたラビは、軽く弾みをつけて体勢を立て直すと礼拝堂の中に入ってきた。 神田は何事もなかったかのように立ち上がると、慎重ともいえる足取りで近付いてくるラビの方に向き直った。 「動くのもやっとのヤツが、こんな所をフラフラしてんじゃねぇよ」 「ユウも人の事は言えないさ」 「にっ」と普段と変わらぬ笑みを浮かべてみせるラビに、神田は小さく舌打ちをして視線を逸らした。 「俺はすぐ治るからいいんだよ」 ラビの纏う気配が微かに揺れたのが感じられた。 僅かな沈黙。 「…それでも、今は俺よりユウの方が重傷さ」 直に目にせずとも、哀感を秘めた笑みを浮かべるその姿は窺い知れる。 戦いの最中、この身の行く末を案じてどうにか庇保しようとする彼。 それに反し、己の身を気に掛けずただひたすら戦いに身を投じる自分。 自分のこの性格を知り尽くしている彼が敢えてそれを口に出す事は無いが、時に己の命すら危険に晒す無言の訴えは、紙一重から生まれる自分の強さを僅かばかり鈍らせる。 神田は口を開き何かを言いかけたが、しかし小さく息を吐き出し、無言のまま足を踏み出した。 「ユウ?」 「出る。ここは気分が悪くなる」 大怪我を負っているとは思えぬピンと伸ばした姿勢で、神田はラビの横をすり抜けた。 篭り淀んだ空気が、二人の間をすっと流れる。 「外には教団の人間が大勢いるさ」 「…だから何だ」 神田は歩みを止めぬまま、いつものように素っ気なく返す。 「キツイだろ?ユウ」 「…あ?」 ふいに発せられた意図の汲み取れぬ言葉に、神田はピタリと足を止めて背後へ視線を向けた。 扉の隙間から差し込む眩しいほどの月明かりが、酷く真剣でどこか哀しげなラビの表情を映し出した。 ラビは神田の元へ歩み寄ると、幾つもの生々しい傷跡が残る大きな手で、自分よりも少しだけ下にある形良い頬に手を添えた。 「皆の前に出れば、また必死で隠そうとすんだろ?その 予想すらしていなかったその言葉に、神田は大きく目を見開いた。 全てを見透かすかのごとく真っ直ぐに向けられた灰緑色の瞳とぶつかり、反射的に視線を逸らして頬の手を払う。 「…なに訳の分からねぇ事を言ってやがる」 平静を装いながらも、どこか苛立った声色。 神田は胸中で舌打ちすると、再び団服の裾をはためかせて礼拝堂の外へ出ようとした。 しかし、その歩みはすぐに阻まれた。 「…ッ」 背後から強く抱き込められる。 「離せ…!」 「離さない」 身じろいで腕の中から逃れようとする神田を、ラビは更に強く抱き締めた。 触れ合った部分の傷が僅かに熱を持つ。 「そうやって、せめて俺の前ではありのままのユウでいて欲しいさ」 ラビは、戦闘において神田がいつも見せる、冷徹非道としか取りようの無い態度を思い起こした。 「あんなユウ見てると、俺も辛くなる」 ラビは神田の左胸に手を添え、梵字を覆う団服を強く握り締めた。 誰よりも命の重さを知る人。 そして、誰よりも「生」というものを割り切っている人。 悲しみ嘆く事で、その辛さを身の内から流し出してしまう事もせず。 苦しみを背負う事を生への執着とし、限られた生命の中で懸命に生きようとする。 後ろなど振り返らず、ただ一心に前を見つめて、強く、強く。 ラビは腕の力を緩め、既に抵抗をやめ大人しくなったその肩に手を掛けた。 素直に誘導されるようラビの方へ向き直った神田の表情は、綺麗に切りそろえられた前髪に隠れてラビの目の高さからは窺えない。 ラビは僅かに頭を傾けてその俯いた顔を覗き込むと、ふっと慈しみを込めた笑みを浮かべた。 「ユウ、俺らは生きような。これからもずっと。一緒に」 「……ああ」 ラビは、どうにか聞き取れるほどの声を発した神田の僅かに潤いを失った唇を指でなぞり、そっと口付けた。 どちらのものとも分からない血の味が、口内で共有された。 E N D.
さらりと甘く切ないものを目指してみるも、撃沈;; 限られた命を割り切っている神田と、その気持ちを受けとめようとしつつ 受けとめきれないラビというのが好きなのかもしれません、私。 05.10.01 |